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弥生時代の歴史 (講談社現代新書)
本, 藤尾 慎一郎
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詳細
- タイトル: 弥生時代の歴史 (講談社現代新書) de 藤尾 慎一郎
- ISBN: 4062883309
- ファイル名: 弥生時代の歴史-講談社現代新書.pdf
- 発売日: 2015/8/20
- ページ数: 359 ページ
- 出版社: 藤尾 慎一郎
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弥生時代の歴史 (講談社現代新書)本pdfダウンロード - 内容紹介 稲作は五〇〇年も早く始まっていた! AMS炭素14年代測定法が明らかにした衝撃の事実をもとに、弥生時代の歴史を書き換える。AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表は当時、社会的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。発表時には当時の常識からあまりにもかけ離れていたために疑問を呈する研究者も数多くいましたが、その後、測定点数も4500点ほどまでにと飛躍的に増加を遂げ、現在では歴博説の正しさがほぼ確定されています。では、水田稲作の開始が500年早まると、日本列島の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。一言で言えば、「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」という、長らく弥生文化の指標とされていた3点セットが崩れ、「弥生文化」という定義そのものがやり直しになったと言うことです。この3つは同時に導入されたものではなく、別々の時期に導入されたものでした。例えば鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現します。つまりそれ以前の耕作は、石器で行われていたのです。また水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものでした。水田稲作は伝来以来、長い間九州北部を出ることがなく、それ以外の地域は依然として縄文色の強い生活様式を保持していました。また東北北部のように、いったん稲作を取り入れた後でそれを放棄した地域もありました。関東南部で水田稲作が始まるのは、ようやく前3~2世紀になってからでした。とすると、これまで歴史の教科書で教えていたように、何世紀から何世紀までが縄文時代で、その後に弥生時代が来ると単純に言うことはできなくなります。水田農耕社会であるという弥生「時代」の定義は、ある時期までは日本列島のごくごく一部の地域にしか当てはめられなくなるからです。本書は、このような問題意識の元で「弥生文化」が日本列島に浸透していく歴史を「通史」として描く初めての本です。 内容(「BOOK」データベースより) 新理論で描く、新書初の「弥生時代」の通史。稲作開始は500年も早かった!!AMS炭素14年代測定が明らかにした衝撃の弥生時代像。 著者について 藤尾 慎一郎1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究大学院教授。専門は考古学。著書に『縄文論争』(講談社選書メチエ)、『弥生時代の考古学』(同成社)、『弥生時代 500年早かった水田稲作』、『弥生文化像の新構築』(ともに吉川弘文館)が、共著書に『弥生文化の輪郭』、『弥生文化誕生』(ともに同成社)がある。AMS炭素14年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年遡らせ大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において主導的な役割を担った。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 藤尾/慎一郎 1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究大学院大学教授。専門は日本考古学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 続きを見る
弥生時代の歴史 (講談社現代新書)を読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。
古代以前の日本史において、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期、古墳時代は、出現期・前期・中期・後期・終末期と、学者間での時期区分が、おおむね一致していますが、弥生時代は、20世紀の古い研究と、21世紀の新しい研究で、ズレているので、大変理解しにくくなっています。20世紀の研究は、遺跡から出土する土器の型式から、相対的に年代を推定していましたが、21世紀の研究は、土器に付着した炭化物中の、炭素14の測定・分析(加速器質量分析法=AMS)を追加することで、±20年程度の誤差がありつつも、絶対的に年代を特定することができるようになりました。本書では、それにより、水田稲作が、紀元前10世紀に、九州北部へ伝播したと判明したので、弥生時代を再定義していますが、従来のように、早期・前期・中期・後期を使用しており、それも混乱する要因なので、年代が特定できるなら、「何世紀頃」という表記を、メインにしてもらいたいです。本書は、素人にもわかる入門書の位置づけなので、地域各々の特徴をテーマにするなら、広域別の変遷とし、先進文化の流入をテーマにするなら、著者の前作『〈新〉弥生時代-500年早かった水田稲作』で取り上げられている区分を、今作でこそ、全面に押し出しても、よかったのではないでしょうか。前作では、弥生時代が、紀元前10~3世紀の1200年間になったので、前半の紀元前10~紀元前4世紀の600年間は、水田稲作+石器の時代、後半の紀元前4~3世紀の600年間は、水田稲作+石器+鉄器の時代と、区分されています。そのうえ、後半の前半の紀元前4~紀元前1世紀の300年間は、石器が主・鉄器が副の時代、後半の後半の紀元前1~3世紀は、鉄器が主・石器が副の時代と区分されており、とても明解です。また、本書は、特に、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入が、取り上げられており、それらをまとめると、次に示す通りです。・水田稲作+農工具:紀元前50世紀に長江下流域、紀元前30世紀に山東半島、紀元前11世紀に朝鮮半島、紀元前10世紀に九州北部、紀元前8世紀に九州東部・中部、紀元前7世紀に神戸・大阪・鳥取、紀元前6世紀に徳島・奈良・伊勢湾沿岸、紀元前4世紀に津軽(紀元前1世紀に断念)・仙台・いわき、紀元前3世紀に長野・関東南部に伝播・青銅器:使用は、紀元前15~13世紀に朝鮮半島、紀元前8世紀に九州北部(今川遺跡の銅鏃・銅ノミ)、紀元前4世紀に西日本で銅剣・銅矛・銅戈(か)・小銅鐸等、鋳造は、紀元前4~紀元前3世紀に九州北部・中部に伝播、銅資源は、7世紀に産出・鉄器:製造(鋳造)は、紀元前9世紀に黄河中・下流域、紀元前5世紀に遼東半島(燕)・朝鮮半島北部、紀元前3か紀元前1世紀に朝鮮半島南部、6世紀に西日本、鋳造鉄器の使用は、紀元前4世紀に西日本(燕から)、紀元前2世紀に東日本、鍛造鉄器の使用は、紀元前3世紀に九州北部、鍛造は、1世紀に西日本で普及、(紀元前1世紀に石器が衰退)ただし、これらは、何ヶ所の遺跡・遺物で判断しているのか、詳細不明な部分もあり、それによって、一所での突発なのか、狭域での先駆なのか、広域での定着なのか、根拠をすべて提示してもらえれば、もっと親切なのに、残念です。ここで、一所での突発か、狭域での先駆か、広域での定着かに、注目するのは、狩猟・採集社会では、抗争が異例ですが、水田稲作社会では、抗争が通例だからで、水田稲作が普及すれば、水田整備・田植え・稲刈りや、近隣との利害の衝突・抗争等があり、集団行動・集団生活が大切になります。そのため、集団を統率する有力者が、首長として台頭しますが、環壕集落がないのは、近隣との縄張意識があまりなく、有力者の墓がないのは、首長が突出しなくてよい、縄文的な分権社会といえます。分権的な狩猟採集社会から、集権的な水田稲作社会への転換は、ある集団が、分権から集権化すれば、隣接集団も、防御・対抗するために、分権から集権化しなければならなくなり、東北北部で、水田稲作を途中で断念できたのは、周囲から孤立し、近隣からの圧迫がなかったからではないでしょうか。ところで、本書では、朝鮮半島南部の村から離脱した水田稲作民が、九州北部の平野の下流域に定住し、中・上流域に定住していた園耕民と住み分けたのが、水田稲作の最初だとしているようです。しかし、海洋漁労民は、縄文時代から、朝鮮半島~日本列島の間で交流していたので、かれらの情報で、九州北部の平野に新天地があり、かれらの支援で、丸木舟の船団で渡海し、水田稲作民の水田整備期間には、食糧調達もしなければならないので、陸海両面で、相当の人数が必要になります。しかも、日本最古級の九州北部の板付遺跡では、自然を大規模に改変し、石製品・木製品だけで、高度な水田を整備したとあるので、相当の期間がかかり、水田稲作民だけでは不可能でしょう。「魏志倭人伝」には、倭人に入墨文化があるとされているので、渡来当初からの、海洋漁労民の関与が想定でき、一大率は、一大(壱岐)国が、交易+統治の拠点として、九州北部に設置したとの仮説を、連想させます。なお、本書は、弥生時代の通史という位置づけで、執筆を開始したようですが、研究成果が新旧で変更された、前半の600年間と、後半の前半の300年間は、重点的に取り上げられている一方、後半の後半の300年間は、かなり省略され、弥生時代のすべてを、網羅しているわけではありません。筆者は、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入の先駆を、テーマとしているようで、紙面の制限があるからか、それらが普及してからの、諸小国の王の出現、王墓とその副葬品、高地性集落の分布、小国と外国との交流等が、多少手薄になっています。さらに、水田稲作は、紀元前10世紀の朝鮮半島南部からの流入だけでなく、中国大陸の江南地域からの影響もあるとされ、紀元前5世紀の呉の滅亡・紀元前4世紀の越の滅亡や、紀元前3世紀の秦の始皇帝による徐福伝説が、その候補ですが、それらにも踏み込んでいないので、留意すべきでしょう。最後に、後半の後半の300年間において、2世紀後半に、九州北部の諸国(倭)と、近畿中部の諸国は、相互に圏外で、倭国乱は、九州北部周辺の戦争で、終戦で交易が活発化できるようになった3世紀前半から、九州北部が、近畿中部へ、徐々に鉄器を販売しはじめたのではないでしょうか。近畿中部は、倭国乱に参戦していないので、米で鉄器を購入し、後漢が衰退しはじめた2世紀後半以降の漢鏡7期は、すでに大量生産され、市場で商品化されていたので、米で銅鏡も購入、威信財とした一方、九州北部は、3世紀前半に後漢が滅亡すると、商売目的で、銅鏡を調達・販売したとみられます。大阪平野の池上・曽根遺跡や、奈良盆地の鍵・唐古遺跡では、大勢の人々が生活していたので、かれらの食糧を供給できるほど、近畿中部では、米が大量生産できたと推測できます。西日本では、2世紀までに、各地で陸橋付の円形周溝墓・突出部付の円丘墓が出現し、それが、3世紀前半からの、帆立貝式前方後円墳・前方後円墳の登場につながっており、前方後円墳は、大和が発祥というわけではなく、同時多発とみるべきです。3世紀半ばのホケノ山古墳・箸墓古墳等は、近畿中部の諸国連合の王墓で、大型の前方後円墳の造営は、大和が顕著ですが、それは、王が米の財力で、農閑期に、水田稲作民を雇用したからで(富の再分配)、周辺諸国への不戦の意思表示として、全国に流行し、交易も活発化したのではないでしょうか。よって、近畿中部には、何もなく、関東~九州の中央なので、中心になったと主張するのには、無理があり、私は、近畿中部の諸国が連合した大和政権が、3~4世紀に、西方2・東方2の計4方向に、交易(先進文化の輸入と輸出)ルートを確保することで、流通を主導したとみています。それらは、輸入のための丹波ルート(日本海側)・西道ルート(瀬戸内海側)と、輸出のための北陸ルート(日本海側)と東海ルート(太平洋側)で、「日本書紀」では、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定ですが、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓でしょう。輸入も輸出も、それぞれ2方向の交易ルートを開拓したのは、輸入の場合、売り手側が2者なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和政権は、売り買いとも、優勢になったとみるのが自然です。他方、九州北部の諸国が連合した筑紫政権(倭)は、輸入が、朝鮮半島南部ルートの1方向のみなので、価格が一定になり、輸出が、出雲ルート(日本海側)と吉備ルート(瀬戸内海側)の2方向としても(出雲は、朝鮮半島と直接交易していたかも)、大和政権と比較すれば、やや劣勢といえます。
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