俳句とは何か (角川ソフィア文庫)ダウンロード
俳句とは何か (角川ソフィア文庫)
本, 山本 健吉
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詳細
- タイトル: 俳句とは何か (角川ソフィア文庫) de 山本 健吉
- ISBN: 404114907X
- ファイル名: 俳句とは何か-角川ソフィア文庫.pdf
- 発売日: 2000/7/25
- ページ数: 350ページ ページ
- 出版社: 山本 健吉
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俳句とは何か (角川ソフィア文庫)ダウンロード - 内容紹介 俳句の特性を明快に示した画期的な俳句の本質論「挨拶と滑稽」や「写生について」「子規と虚子」など、著者の代表的な俳論と俳句随筆を収録。初心者・ベテランを問わず、実作者が知りたい本質を率直に語る。 内容(「BOOK」データベースより) 俳句の特性を明快に示した画期的な俳句本質論「挨拶と滑稽」をはじめ、「子規と虚子」「女流俳句について」など、著者の代表的な俳論と俳句随想、ゆかりの深い六俳人の作品鑑賞を収録。初心者、ベテランを問わず、実作者が知りたい俳句の本質を、率直に繊細に語る。俳句を愛するすべての人におくる、本格俳句入門の書。
以下は、俳句とは何か (角川ソフィア文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
山本健吉が、俳句は芭蕉に始まって芭蕉に終わる、とどこかに書いていたのを読んだように思って、あらためて本書にあたって確かめてみました。いま手もとにあって、そういうことが書かれていそうな山本健吉の本は、この『俳句の方法』(角川ソフィア文庫)ともう一冊現在も手に入れやすい『俳句の世界』(講談社文芸文庫)です(ほかにも持っている昔の角川文庫版『現代俳句』と新潮文庫版『古典と現代文学』はまあ置いておいて)。走り読みで読みかえしたところ、上のような文言は見当たらず、どうやらこちらが勝手に山本健吉の文章をそんなふうに要約して理解していただけのようです。上掲の二書のどちらにも収められている「俳句の世界」というエッセーがとにかく啓発されること多い、充実した内容のものです。そこに読まれる「俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは、一度だってない」とか「芭蕉の俳句は、日本の抒情詩が達することのできた、ほとんど唯一の形而上詩であり、思想を経験として感性のなかに融かしこむことのできた稀な例である」とか、「芭蕉の死とともに、急速度に俳人たちの感性の解体が始まるのである」とかいった文章を、たぶん俳句は芭蕉に始まって芭蕉に終わるというような要約のしかたでもってこちらは乱暴に読みかえてしまったのだろうと思います。山本健吉は、芭蕉にあって俳句(発句)というのは、つねに連句を潜在させているもので、発句のみであってもそこには連句におけるような挨拶と滑稽と即興という要素が芭蕉の句にはつねにある、ということを主張しているようです。そういう俳句(発句)のありかたというのが、芭蕉の死後失われてゆく、ましてや近代になって子規が連句を否定して、つまりそれに付随していたとりわけ挨拶を切りすて俳句(発句)のみを単独で詩芸術へと高めようとしたとき、芭蕉の精神、挨拶を俳句の要としていた芭蕉の精神が完全に失われてしまったというわけです。そういう意味で、「俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは、一度だってない」と山本健吉は書いているのだろうと思います。ただだからといって山本健吉は、現代の俳人たちに向かって、芭蕉に帰れ、芭蕉の精神を取り戻せ、とはたぶんいわないだろう、あるいはいえないだろうと思うのですが。つまり挨拶を可能にする、著者のいう、芭蕉の時代にあった、そして芭蕉の周辺にあった、そしてまたその挨拶と不可分の関係にある季語などに潜在していたであろう親密な「生活協同体」というものがもはや現代にあっては成立しないでしょうから。まあ「生活協同体」のようなものを持ち出すところ、あるいはそれを強調するところには、著者が折口信夫とか柳田国男などから影響をうけた民俗学的な発想があるのかもしれませんが。ほかに、「座の文学」の章で著者はつぎのように書いています:「短歌から連歌が生まれ、連歌から俳諧が生まれた日本の詩の歴史を考えてみると、これは大変な迂回路をたどったことになるのだ。『新古今集』と正風俳諧とのあいだに連歌の長い歴史を置いて考えてみると、それはあまりにもみのりの乏しい詩歌の道だったといえるだろう。だから極論すれば、詩の自覚の歴史としては、西行・俊成・定家の時代から、直ちに芭蕉へつないでも、筋道は通るである。詩の自覚とすれば、それは一歩の飛躍にすぎないが、実際の歴史の流れは何べんも同じことを、やり直しやり直ししながら、ようやく辿りついた道なのだ。」うーん、これだとそれこそ「極論すれば」、「連歌の長い歴史」は無駄だったということになりかねないのですが、まあとはいっても、ここまで断言する著者の日本の詩への思いにはいちおう敬意を表しておきたいとは思います。
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